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家系図の不思議

松崎整道居士 講演

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三 墓と家運の盛衰

一大の高名者、成功者の永続せざる原因

それから、よく一代に名を成し、財産を作る人がありますが、 その名声や財産をきちんと後世子孫にまで伝える人は誠に暁の星の如く、まれなようです。
名誉と財産は代々累代で築き上げたものは手堅いが、一代或いは一時にできたのは、 誠に槿花一朝の栄で、長持ちいたしません。なぜ、永続しないのでしょうか。
これもやはり、根がないためで、すなわち完全なお墓持っていないからだということを断言いたします。 これについては少し例を述べてみましょう。

維新の元勲岩倉公

明治の元勲、岩倉公の後はどうなったでしょうか。
公は位人臣を極められ、 生存中は従一位の大勲位、左大臣であり、他界されてからは太政大臣を追贈された。 天皇が国務を三日取りやめられ、国費で葬られ,葬儀は大変盛大であったそうです。 公は剛毅な性格でありながら淡白で、節約を大切にして家訓をつくり、贅沢を子孫に戒められました。 その家訓が出来て一族が調印されたのは、公がご他界される五日前だったそうです。
しかし、公がご他界されてまだ日が浅いのに、二代目は公の家訓にそむき,贅沢を極め、 その結果、破産没落の悲運を見たでは有りませんか。あまりに同家の運命は、極端から極端を示しているではありませんか。
このようなことは、どこからおこるものでしょうか。公の成功は、もとより不世出の俊傑であって、 維新の大事業を成功させるのには、その力は有り余る人であり、 その名声の輝かしいのは当然のことですが、ただ公の英俊と好機をえたばかりではこの成功はなしえないのであります。

祖先代々の隠徳

これは遠く祖先、すなわち岩倉家の長年集積された功徳と、 その生家である堀川前中納言家の施された陰徳がもたらした果報であると信じて疑いません。
しかし、公は生存中、国事が忙しいことを理由に祖先に対し、 供養や報恩感謝の祭事を怠ったことはなかったのでしょうか。 公のお墓は品川海晏寺の本堂裏の高台に最も立派に築かれてありますが、 これは墓相からみれば盛運のきわまったもので、子孫はお気の毒といわざるを得ません。 公はすなわち、過去先祖の積まれた陰徳はもちろん、 長く子孫が受けるべき果報までも使い尽くしたものというほかありません。

明治維新の三傑

次に木戸、大久保、西郷らいずれも明治維新の元勲であり,俗に「維新の三傑」と称せられ、 名声は輝かしいものがありますが、その最期はどうなったでしょうか。 木戸公の場合、明治十年四十四歳の短命で病死され、しかも跡継ぎがありません。 弟の正二郎氏にもこれを相続させる子がなく、同じ藩士の来原家の男子である孝正氏を養嗣子にして、 侯爵家をつがせることができました。
大久保公は、参議兼内務卿として国政をつかさどり名声は輝くも、 同十一年五月十四日、出勤の途中、石川県の島田一郎以下六名に赤坂紀尾井坂で刺殺されました。 享年四十七歳でした。その墓は、青山共葬墓地内にあります。
また西郷参議兼陸軍大将は、元帥であり名声は前者をしのぐものでしたが、 国政に参加することが出来ず、郷里鹿児島に隠居するや明治十年、 常に教示してきた若い武士たちの犠牲となり、不幸にも朝敵の汚名をきせられ、薩摩城山の露と化しました。

伊藤公山縣公大隈公

さらにそのあとの三傑、すなわち伊藤、山縣、大隈ら三者の運命はどうなったかという前に、 前の三傑と似たり寄ったりあり、後の三傑の筆頭ともいわれる伊藤公は、 格別身分の高い家に生まれたものではないが、時の運に恵まれ、人臣として最高位に昇られ、 国家の元老として重責をになっておられたが、ロシア訪問の途中ハルピンで朝鮮人に殺傷され、 異国の露と散りましたことは誠に残念でありました。 その後はやはり子がなくて養子相続であります。墓は大井の谷垂にあります。
山縣公の場合は災難はなかったのですが、その家を継いだのは同じく養子であります。 大隈公も同様で養子相続でございます。共にお墓は小石川音羽の護国寺にあります。
先代がいかに名声を上げられても、その家を相続する子孫がなく、 他人の子供で家名を継がせるようなことは最も不幸であり、 このようなことは一代において立身出世を意のままにせられた結果壽運が乏しくなり、 子孫を欠くことになったと言うほかがありません

一門挙って富且つ栄たる某公爵家の末路

いかなる名家でも、また名士でも、名も馳せ富も得、そのうえ子宝に富むという、 この三拍子揃うものは誠にまれなることであり、名を得れば富を得ず、 富を得れば子宝を欠くということが世間普通の状態であります。
某公爵家の場合、同じく明治の功臣の一人で、官位も高く名声も顕著でまた子孫も多く、 長男の某は当時有名な某大銀行の頭取となり、次男の方も某大造船所の社長であり、 その他の兄弟それぞれ皆さん各方面に頭を挙げ、一門挙って富かつ栄え、 明治功臣中まれに見る幸福の家であります。 前に述べた諸公と異なり、 この公爵家は過去にその祖先がよほど結構な福種を蒔かれたことと思っておりましたが、 一昨年の未曾有の恐慌に際し、その大銀行も、大造船所も、またその他の事業も大破綻して、 一門ことごとく失脚されましたのは、誠にお気の毒に思います。 その銀行の預金者や株主などはそのため非常な迷惑をこうむったそうですから、 それはまたやむをえない結果でありましょう。

紀の国屋文左衛門

そのほか富をもって一代に名を成したものは、なかなか少なくはございません。 徳川幕府全盛の時代、紀の国屋文左衛門や奈良茂などは講談などで皆様ご承知の通り、 一代に興して一代につぶれているのはもちろん、明治大正の富豪の中にもそれが少なくありません。

成金の実例

日露戦争の頃より出てきた言葉ですが、「成金」という言葉が今も使われておりまして、 ことにあの世界戦争の中途よりわが国には種々成金が出てきました。 船成金、鉄成金、株成金、その他何々成金と、当時数え切れないほど種々なる成金が現れ、 その成金という言葉がはじめて冠用されたのは、今もなおご承知の人が沢山ございましょうが、 それは何久(なにきゅう)と申す一青年にうたわれたのが初めであります。
世界戦争の時とは大分桁が違いますが、そのときには珍しき成功でした。 彼はたしか、埼玉県の某所の何某とか呼ばれた地方ではかなり大きい酒造家の次男坊とかで、 兄の何右衛門が酒造のかたわら経営しておりました銀行の東京支店で一店員として働いておりました折、 日露戦争が勃発いたしました。 そのとき彼は株式に手を出し、大当たりに当たりましたのみならず、 鐘紡株とかの買占めにはほとんど敵がなく、一時大成功を遂げました。 世界戦争のときや今日の財界から見ますとたいしたことではありませんが、 明治三十七八年の当時、三十歳未満の一青年が約一千万円ほど富を勝ち得ましたので、 世間では一時彼を成金の旗頭と褒称しましたが、まもなく彼は惨敗して元の木阿弥、 ただの歩(ふ)となって今ではただ笑い話に残るだけです。
これはお墓、すなわち根を持たずして咲かせた花と同じで、枯れずにいるわけがないので、 その失脚はむしろ当然というべきものでございます。

財産はただ美麗荘厳の墓とのみ化す(実例)

また、根、すなわちお墓を持っていてもその建方が悪いので、その家の枯れた実例を申せば、 下野の國(栃木県)のある町に横尾某と言う地方きっての田舎大盡がおられました。
その家では山の木を年々五万円ずつ切って売っても五十年たたねば元の場所に来ぬというほどのもので、 山林以外の富もいくばくあるのか分かりません。 その家の墓は住居の後ろの城山と称す山上にあり、 子供一人亡くなった者の墓でも何百何千円を投ずるような状態で、 墓所にお金をかけることなにほどか計り知れぬようなわけで、その美麗荘厳著しいものでありました。 田舎大盡のくせに娶る嫁は華族でなければ貰わない。 また出すのも華族でなければ相手にしないという豪奢ぶりで、 一年の大部分を東京で暮らし、その市中に投資してあるものもかなり沢山あったそうですが、 その主人が没してもはや十余年になりますが、息子が相続するとまもなく没落しました。 これらはその家の家運が美麗荘厳な墓と化してしまったのであります。

某富豪の末路(実例)

また一昨年の恐慌のとき、第一に没落した某個人銀行があります。 この家は江戸中古よりの旧家で、日本橋において初め海産物などを扱われ、 後、国立銀行がしきりに設立された時代に第二十何番かの国立銀行を設立され、 その国立銀行が廃されるときに自分の姓を冠した銀行に改めました。 その銀行は市中の信用も篤く、個人銀行としてかなり優勢なものでありましたが、 あの恐慌で内状を暴露し、終に大破綻を招き一家の没落はもちろん、 その預金者などに非常の迷惑をかけ、中には驚愕のあまり死亡した者などもあるとの噂さえあったような次第でありました。
この家の墓は浅草の某寺にありまして、 その先代は東京市より貴族院議員に選ばれたような名誉の人で、のち功により勲四等かに叙せられました。 先年亡くなりましたからそのとき建てられたものでしょう。 あるいはこの墓碑を建てるにつき先祖以来幾代かの墓を整理されたのであろうか、 沢山の法名を刻み込んだあまり大きくない一基の石碑がその墓所の片隅に建てられ、 墓地の中央の良い所に一段高く立派な石碑にその勲四等何々と現したものがあって、 そのほか二基ばかりそれに次いで建ててあります。
ご先祖方が積んできた功徳の余慶により東京でも屈指の富豪となり、 名誉も得たのにご先祖は片隅に寄せられ、 しかも石の過去帳のように一基の石碑に沢山の法名をならべられたうえに、 勲四等の先代をその墓所の主体のように建立されたことは、先祖を無視した不孝の形であり、 家運が革まるのは自然の勢いである。 その家の現在及び将来の幸福はことごとくその勲位を記した石碑となって顕われ、 よって石碑は、「家滅びて墓あり」と言うことを示されたのに過ぎません。

争い絶えず火難の墓(実例)

大分長くなりましたが、今一つの例を挙げます。この東京で三井、三菱に次ぐ富豪があります。 一代での成功者ですが、 不幸にして先年その主人は相州にある別邸内においてある者に飛んだ災難で刺殺されました。 その家の墓を数年前に見たことがありましたが、そのときの感じを同行の者に語ったことがあります。 それは「この家には争いが絶えず、また火の難を免れない」と申したことがあり、 果たせるかな後年それが事実になったことを見聞しました。
その墓もまた浅草の某寺でしたが、震災後どちらかに移転するように聞いておりましたので、 今はもうないかもしれません。 それは他の各檀家の墓に並び、 間口が八九尺、奥行三尺位で高さ四尺位の切石の上に三基の石碑が建っておりました。 中央の石塔には「何々家の墓」とその家の姓を冠し、 左右の墓には同姓の文字の下に「分家の墓」と「累家の墓」となっておりました。 これは同家一族、何家かの表現でありますが、その感じは前述のとおり「火と争い」でした。 その後新聞などの伝えるところによりますと、その家では最初娘さんに養子を迎え、 その方が戸主となって同家一門事業の中心人物でありましたが、 後に追々と実の息子さんたちが成人してまいり、 その間どのような事情があったのか、 終にはその戸主である養子夫婦を同家より離籍するようなことになりました。 また一族中の一家はあの十二年の大震災の折、一家全滅の災いをこうむりました。 また他の一家の主人は、あまり金を貸しすぎたとかのことにより、 一門から除外されました。 当時いずれも世間の嘱目されるところでありましたが、これまた、その墓の建方が悪いのでありました。
この家にのみ限ったわけではありませんが、同一の墓地区画内に本家と分家、或いは親子兄弟でも、 また或いは他姓のものでも混じって建つのは良くないので、もしそれが二軒のときは、 盛衰交々至り、三軒のときは火と争いの難を免れません。
いずれにいたしても、よき根、すなわちよき墓をもっておりませんと、 家が平和に長く栄えて続かないのであります。

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